【2017年度リーゼンフーバー師による「土曜アカデミー」の再開と《Trois liturgies de la presence divine》(1943-44)のメシアンによる自作テクスト理解について】

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昨年2016年11月より、体調不良により休養されていたクラウス・リーゼンフーバー師が、約半年の療養期間を経て4月16日の「ご復活祭」より復帰して下さいました。
そして4月22日(土)は待望の「2017年度土曜アカデミー(哲学史)」講座の開講です。
教室には懐かしい受講メンバーの姿も見えます。
師は顔色もよく、お元気そうに見えました。
私も大変安堵致しました。

さてこの回は、哲学の黎明期からの解説となり、哲学ディレッタントの私には、初歩から大変興味深く拝聴する事が出来ました。

私の追っているO.Messiaen《Trois petites liturgies de la pesence divine》(1943-44)のメシアン自身による自作テクストには、初演当時「典礼論争」といって、様々な物議を醸し出した経緯が在るものです。
その詳述は割愛しますが、ヴァチカン側からの抗議としては以下の言い分があったようです。
「テクストの内容が誤解を招き、カトリック信者の正しい教義理解を妨げる。」
この件を調べた事をきっかけに、私は2013年11月から某地方のカトリック教会に足を運ぶようになったわけです。
教会に赴いて調べたかった事柄は以下であるからです。

1. オーソドックスなカトリック教義はどの様なもので、何処からがメシアンによる創作逸話の世界なのか。
2. 上記作品テクストの、具体的にどの部分がカトリック信者の理解を誤った方向に向ける懸念があったのか。

2013年からこの件に関しては、地方の教会では個人的に実に様々な障害に出くわし、なかなか遅々として進まなかった調査ですが、四ツ谷に移れた事によって、この4年間で少々の見解が生じてきました。
即ち、メシアンは聖書による「神学」と、キリスト生誕以前から起こった「ギリシャ哲学」とを、作品テクスト上に並置してしまった箇所が見受けられるという事が論争を招いた原因の一つではないかと愚考しました。
「一神教によるカトリック」と「多神教によるギリシャ神話」の世界観は、矛盾を生じさせます。
そうした部分でのヴァチカンとの見解の差異が、この美しくも希望に満ちたテクストに於いて、論争が生じたのか?との目星をつけつつあります。

いくら探してもこの事に辿り着けなかった2013年から考えると、四ツ谷に移ってこられ且つリーゼンフーバー名誉教授の薫陶を受けられる事は、大きな恵といえます。
「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」との旧約聖書コヘレトの言葉(3.1-17)も、大変言い得ていると感じます。
「今できる時宜に適った事柄」を、これからも多々実行してゆければよいなと感じています。

Julia.T.A
le 24 avril 2017 16h16

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