【第二次世界大戦におけるヴィシー政府のユダヤ人排斥とO.Mesiaen そしてその後のConservatoire(パリ音楽院)での師の教育者としての姿を求めて】

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以前、2019年1月~3月辺りに私のおこなった事は以下です。

- 何故メシアンが第二次世界大戦の終戦を待たずして捕虜生活を終えて、パリ音楽院の教授に抜擢されたのか。

事の子細を調べるため、慶應での「仏文学概説」のレポートを書きつつ、当時の政治的背景を共に追って行きました。
その事実たるや、皮肉なことに、ナチス政権の傀儡として機能したヴィシー政府のユダヤ人排斥によって、パリ音楽院のユダヤ系教授が辞職に追い込まれたため、32歳という若さで、O.Messiaenがその職に就いたという事が、徐々に視えてきました。

それでは、パリ音楽院教授に就任した後のMessiaenは、いかなる教育者だったのでしょうか。
以前、youtubeに挙がっていた授業風景の録画を数分観た事がありますが、文献の記録はあるでしょうか。
そこで2008年出版当初、即購入したバイオグラフィーの原書を調べてみようと思います。
2008年当時は、かなり辞書を首っ引きしながら読んだこの原書も、慶應の仏語教育のお蔭で、以前よりは少しは滑らかに読めるようになってきたようにも感じます。

私の私生活上では、今のところ実質月曜日は毎週duty freeとなっています。
今日は自室で様々調べてゆこうと思います。

Julia.T.A
le 10 juin 2019 18h49